はじめまして。クリリンです。
本ブログAcademic Mediaの運営代表を務めており、普段はYouTuberとして活動しています。
YouTubeでは「受験・勉強」のことについてあまり話していませんが、このブログでは特に「受験・勉強」のことに特化して話していこうと思います。
まずこの記事では、幼少期時代の生い立ちから、公立中学・公立高校を経て京大医学部に現役合格するまでのエピソードを余すことなく書いていきます。
いること、いらんこと書いてたら、2万字を超えるかなり長い記事になってしまったので、読み飛ばしながら興味のある部分だけでも読んでもらえたら嬉しいです。
そしてその経験から得た「教育・学歴社会」に対する知見共々、連々と書いていきます。
どうか、名前だけでも覚えて帰ってくださいm(_ _)m
臨場感を出すため、ここから口語調で書いていくよ〜。
幼少期時代の記憶
自分はあまりにも恵まれた家庭に生まれた。
両親は離婚・死別等なく円満良好。年齢5つ上の兄と3つ上の姉をもつ、3人兄妹の末っ子で、障害もなく3人揃って健常児。
名古屋市内の住宅地の拠点にて、父親一人で5人家族を養い、経済面で困ったことは過去一度も無い。むしろちょっとした贅沢や娯楽も許された。
流行りの言葉で言えば、「親ガチャ大当たり家系」だ。
無論、幼少期の自分はそれが恵まれたことであるなんて気付かない。
こういった幸せは、失ってからじゃないと気付けないものである。
ちょっとしたワガママが簡単に通るのはごく当たり前のことだと思っていた。
気に食わないことがあるなら、やかましくない程度にクシャっと泣き顔を見せ、周りの大人たちを「甘やかしモード」にコントロールするくらいのアザトサと戦略性を持ち合わせていたことを覚えている。
幼稚園入園前のなけなしの情報把握能力を駆使し、毎日のように勃発する兄 vs 姉の喧嘩と、それをあたふたと宥める母親の姿を見て、
「たぶん今泣いても構ってもらえねぇわ。」
と大人しくしていた記憶もある。
母親「あんたは走り回ったりせんかったし、静かな子やったよ。」
幾度となく言われた。
そんなつもり無いんだろうけど、勝手に褒められた気分になっていた。
幼稚園に入園してからも、このマセ具合に拍車がかかる。
夕方、「帰りの会」前の自由時間。
外で遊具・砂場遊び・鬼ごっこをしながらも常に時間を気にかけ、先生から集合の合図がかかる前に独りテクテクと教室に戻り、教室が騒がしくなる前に帰りの支度を済ませる。
とんだ優等生っぷりだし、先生にも毎日のように褒められていた。
やっぱり褒められると嬉しかったし、「もっと褒めてっ!」と言わんばかりに、ウキウキで生活のほとんどを先回り・逆算で立ち回るようにしていた。
そんな自分が誇らしかった。
基本、放任主義の親だったが、この頃から「水泳」と「公文式(KUMON)」の習い事に通わせてもらっていた。
通わせる理由に、「自分が泳げないから〜」「自分が勉強できないから〜」と言われたことを覚えている。
今思えば、親が自分の子供でコンプレックスを解消しようとする典型だ。
もちろん通わせてもらってるだけ贅沢だし、今でもとても感謝してる。
毎週(水)に水泳で、(月)(木)に公文式。
宿題もこなしながら過ごしていると、時間があっという間に過ぎていき、卒園を迎えた。
小学校時代の記憶
小学校受験など一切考えるはずもなく、近くの公立小学校に入学した。
一学年150人弱の4クラス、全校生徒880人程のそこそこ大きめの学校だった。
入学式の日。体育館に入場する際、見知らぬ女の子と手を繋がされる謎文化に大興奮した記憶だけある。
式を終えて教室に入ると、その女の子が隣の席に座った。
緊張して何も話せなくて、なんか気まずいし、よくわからないけど変な気持ちになって、鼻の下がビヨーンと伸びていたと思う。
次の日の始業式。
高学年が「担任の先生の発表」で怒号と雄叫びで騒ぎ立て、なるほど、「担任」という存在がどれほど重要なものであるかを知る。
小学1・2年生
見事担任ガチャを引き当てた。
新任1年目、女性の先生だ。1年目は優しいと相場が決まってるはず。
後から振り返っても分かるが、アホみたいに優しい先生だった。
給食カートで人間ボウリングしても怒られなかった。
調子に乗ってエスカレートしてたら一人骨折させてしまい、隣のクラスの担任に大激怒された。
小学校に入って勉強が始まることに少し身構えていたが、「ひらがな」の勉強から入ることに衝撃を受けた。
「ひらがななんて幼稚園でみんな書いてたやん、、。」と、拙いながらに日本教育に異議を唱えていた。
テストはとても簡単でほぼ皆んな満点だったせいか、勉強面でヒエラルキーが形成されることは無い。
「ドッジボール強い奴が一番偉い」という価値観だけが浸透していた。
幼稚園の頃から公文式を継続していたおかげもあって、テストでは自分も満点を取ることができていた。
2年生の終わり頃、めっちゃモテた。
「コレ、、手作りなんだけど、、///」
バレンタインチョコを大量にもらった。
ほぼ喋ったことのない、入学式に手を繋いだ女の子からももらって気まずさが増した。
もらったチョコを家に持って帰ったら、母親に大爆笑された記憶がある。
意味が分からない。なんで笑うんだよ。
自分でもなんでモテるのか分からなかった。ドッジボールが強いわけでもないのに。
僕はデリカシーがないので、「なんで好きなの?」と本人に聞いた。
「優しいからっ!」
なるほど。女の子に優しくしたらモテるのか。
で、君と僕はほとんど喋ったことがないけど、そこんとこどうなん?
小学3・4年生
転校することになった。
父親の仕事の都合で2年間オーストラリアに行くことになった。
出発前日、仲の良かったクラスメイトが送別会を開いてくれた。
その中にバレンタインチョコをくれた女の子もいた。
お菓子パーティーをしたり、ビンゴをしたり、トランプゲームでトーナメント戦を企画してくれたりした。
皆んな僕を勝たせようと、あの手この手で勝負を誘導してくれていた。
この時初めて、「忖度」という言葉を覚えた気がする。
楽しい時間も束の間で、別れの時間が来た。
皆んなそれぞれがプレゼントや手紙を用意してくれていた。
「〇〇、今までありがとうっ!」
例の女の子の可憐な声の響きが今でも鮮明に耳に残っている。その子は目に涙を浮かべていた。
僕は人生で初めて、自分のために誰かが動いてくれたり、自分のために誰かが感情を動かすことを経験し、友情や愛情の尊さを知った。
「I’ll be back.」
当時流行っていたSF映画をなぞらえた迫真の演出をしたけど、盛大に滑った。
出発当日。初海外で、初飛行機。気圧で耳が痛くて泣いた。
オーストラリアは、ともかくスケールがデカかった。
デパートにしろ、公園にしろ、家にしろ。広大な土地を存分に生かしてやがる。
「南半球で一番大きいデパート」があったり、「2011年まで一番高かった超高層マンション」があったりと、なんとも歯痒さが残るスケールとなっている。
父親の仕事の関係もあって、後者の「超高層マンション(=ユウレカタワー、当時は一番高かった)」に一時期住んでいたことがある。
「オーストラリアは地震が無い安定大陸だから、こんなにも高い建物を作ることができるんだよ〜」と話に聞いていたが、余裕で地震がきてめちゃくちゃビビった。(後から聞いたが、高層では揺れが増幅するため、ちょっとの揺れでも大きく感じるらしい。)
オーストラリアでは現地の学校ではなく、日本人学校に通っていた。
1学年2〜8人程度。小学校・中学校が合同になっていて、全校生徒9学年50人程の学校だ。
中には幼稚園の頃からずっとオーストラリアに住んでる子もいて、英語をペラペラ喋る人も多かった。
学習進度は日本のカリキュラムに準じていたので、日本の受験制度において学習に遅れを取ることはない。
それに加えて英語の授業や補講(「a・the・無冠詞の使い分け」みたいな。)が多かったりして、意図しないナチュラルな英才教育を受けてるみたいで気分が悪かった。
この学校には陽気な人が多かった。
先生が生徒一人ひとりに自作の歌をプレゼントしてくれた。一人ひとりの性格や口癖が見事に盛り込まれた歌で、みんなでキャッキャ喜んで歌いあった。
音楽の歌のテストも、自分の歌を歌わされて、飛んだ拷問だった。
学校全員でドロケイをしたのは気分がワクワクしたし、それが楽しみで学校に通っていた。
人気の少ない放課後、小学1年生の女の子が男子トイレから出てくるのを見て衝撃が走った。
「女の子にも、そういう気持ちがあるもんなの…?」
性への関心が早すぎることに、危うく感心してしまうところだった。
小学校4年生の頃、5つ上の兄は中学校3年生で、受験生を迎えていた。
当時の兄は、オンラインネットゲーム「RED STONE」というゲームに大ハマりし、日夜問わず友人とSkype通話しながらカタカタとゲームに奮闘し、パソコンの席をドシッと占領していた。
友人との談話から生まれたであろう「ウェヒャヒャヒャッっ!!」という笑い声は、近所にまで響いていたらしい。
そんな兄に見兼ねた父親が、
「お前、志望校くらい早く決めろ。」
と、普段は見せない怒り口調で兄を叱責し、兄にパソコン禁止令を発令していた。
そんな中母親は、
「ゲームはお父さんが会社に行ってる時だけ。隠れてやろうね。」
とろけそうなくらいスウィーティな言葉をかけていた。
そんな母親が好きだった。
それからというもの、兄は父親が帰ってくるまでの限られた時間にゲームをしては、家の扉の鍵がガチャガチャとなり始めた瞬間にアワアワと大慌てでパソコンの電源を切り、自分の部屋に逃げ込んで勉強していた。
この日常光景を見て育ったがため、
母親の前では「素性を見せて甘える」、父親の前では「言うことを聞いて良い子を演じる」
という自分なりの生活方針が確立した。
海外にある日本人学校の特性として、およそ1年ごとにクラスメイトが増えたり減ったりする。
1年だけ転勤で来る人もいれば、幼少期から長くいる人が急に帰ることになったりすることもある。
出会いと別れが頻繁にあって、僕の同級生も離れ離れになることが分かれば、みんなで号泣した。
そうしてオーストラリア2年間の生活を終え、日本に帰ることになった。
小学5・6年生
日本に帰ってきて、元の小学校に戻ってきた。
小学校4年生以上は部活に参加できる学校だったので、これ以降は部活に明け暮れていた。
続けていた公文式も辞め、色んな部活を兼部することが許されたため、野球・水泳・陸上・バスケ・テニスと、残りの小学校生活の全てをスポーツに注ぎ込んだ。
おかげで体力と筋力が付き、ドッジボールでも活躍できるようになった。
なのに全くモテなかった。なんでやねん。
日本を旅立つ前に好いてくれていた女の子は、転校で半分くらいになっていた。
そのうち残っていた子も、かつての愛情はどこへやら、一言も喋らないどころか、目も合わせてくれなかった。
寂しい思いをさせやがって。気まずかったのか?もう好きじゃなくなったのか?きっと男の好みが変わったんだろう。
男女の愛情は儚いものだと知った。
当時の流行はポケットモンスター ダイヤモンド/パールだ。
この世代から初めて「ポケウォーカー」なるものができて、なんと、ゲーム内で捕まえたポケモンを万歩計の中に入れて連れ回すことができるなんていう話だ。
歩いた歩数によって、経験値が貯まったり、なつき度が上がったり、レアなアイテムを拾ってくる。
当時の小学生男子諸君はこの任天堂によるポケモン革命にザワザワと唸りを上げ、放課後クラスメイトと公園に集まっては、みんな共々1歩でも歩数を稼ぐべくドタバタ暴れ回っていた。
テストはなぜかゲロムズだった。算数のテストとか、平均点22点みたいな。ワレ、ほんまに公立か??
以前通っていた公文式のおかげもあって、そんなゲロムズテストで50点くらいとっては、クラスのみんなから崇められていた。
いや、国語と社会は平均点切ってたけど。
この頃からなんとなく、自分が理系脳であることに勘づき始めていたかもしれない。
小学校6年生の頃、3つ上の姉は中学校3年生で、受験生を迎えていた。
姉も兄の背中を見て育ったおかげか、志望校は早めに決めていた。勉強はしないけど。
確かに、父親は「志望校を決めろ。将来について考えろ」と言ってるだけで、「勉強しろ」とは一言も言っていなかった。
今思うと、子どもの意思を尊重する親父の教育方針と、最低限で失墜を回避する姉の護身術が、性格のフェノタイプとしてよく表れていたと思う。
この小学校では、学年の1割くらいが中学受験に向けてガリガリ勉強していた。
当時、「中学受験」とやらが何者かサッパリ分からなかったが、父親から
「中学受験するかー?中学受験しておくと後が楽やでぇ〜ガハハっ」
と選択肢としては与えられていたものの、漠然すぎる説明を受けてもっとよく分からなくなった。
まぁシンプルに勉強するのは嫌だし、兄と姉もそんな突飛なこと一切していなかったので、なんとなく背中を追う形で近くの公立中学に通うことにした。
中学校時代の記憶 ←勉強の話はここから
この中学校は、学区内の3つの小学校の卒業生が合同する学校だ。
一学年300人前後7〜8クラス、全校生徒900人程の、結構なマンモス校だった。
人生初の学ランはかなり窮屈だった。首周り重すぎ、、。
「校則」という足枷の範囲内での生活を強いられることをイメージしてしまったからか、ウキウキ感はこれっぽっちもなかったし、緊張と不安、むしろ恐怖に近い感情で登校した記憶がある。
小学校の時と違い、入学式で色ときめくイベントは無い。質素でとてもつまらなかった。
毎日制服、校則でがんじがらめ。
俺は今からこの監獄で3年間という時間を浪費するのか???
中学1年生
入学式を終え、はじめましての担任にこんなことを言われた。
「中学生になったら勉強しなくちゃいけないですね!」
ふざけるなと。
ただでさえ窮屈な監獄生活に加え、そんな重労働まで課すのかと。
嫌すぎて嫌すぎて、なんとなくその言葉が頭にこびりついて、、でも嫌すぎて、
この言葉をこんなにも真面目に受け止めていたのは、たぶん自分くらいだったと思う。
それもそのはず、兄と姉が勉強に苦しめられている姿を、既にこれでもかというほど見てきている。
「勉強は辛い。でもやらなきゃいけないもの。」
制服も、校則も、勉強も、全て今の日本教育に必要な演出なのだと理解して、そのレールに乗っかることを受け入れた。
部活はバスケ部に入部した。
顧問の体罰気味の指導を受けつつ、中3の先輩にボコボコに虐められるのが中1の役割だった。
ちょうど近くの中学校のバスケ部で、体罰といじめによる自殺者が出て、指導体制に変革が起こる過渡期くらいだったように思う。
顧問の手が出る時は、「あれ体罰じゃね?」「教頭に報告だな。」と部員全員で顧問を脅し、反抗した。
平日は毎日朝練、土日祝休みなしのブラック部活で体力を使い果たし、部活と勉強は両立の「り」の字も実現し得なかった。
それでもバスケは好きだったし、辞める勇気も無い小心者だったのでダラダラと続けていた。
兄や友人の影響で、この頃から「遊戯王カード」にハマり始めた。
1度ハマったが最後、いかにして強いデッキを作るかについて研究に研究を重ね、ブログサイトやYouTubeの情報を駆使して、勝率と安定性を求めた最強のデッキを作ることに全神経を注いだ。
みんなで楽しむことよりも、自分が勝つことにしか興味がなかった。
非常につまらない男だったと思う。当時時間を共にしてくれた友人には感謝してもしきれない。
人生初の定期テスト。
テスト週間は部活が休みだった上、なんとなく兄・姉よりも良い成績を残したいという対抗心が芽生え、部活の体力のことなど考えることなく死ぬ気で勉強した。
塾などにも一切通っていなかったので、普段の勉強時間は正真正銘の0時間だったが、テスト前の1週間に限っては、1日12時間くらいは勉強していた。
結果:294人中96位。
聞くところによると、これは姉と同じくらいの成績らしい。
父「へっへっ。上から3番目くらいの高校に受かればええんでねぇかぁ〜?」
ク「ふんっ。まだ本気出してねぇだけだもん。」
そんなこんなで、中学1年生は成績が特に大きく変動することもなく、部活とテストの単調なサイクルを無為に過ごした。
中学校1年生の頃、5つ上の兄は高校3年生で、大学受験生を迎えていた。
大学受験が高校受験なんかより圧倒的に大変だということを、この時初めて知った。
その時、兄はというと、高校受験の時以上にオンラインゲームに一層夢中になっており、志望校なんぞ全く決めていなかった。
まったく学習しない兄貴である。
当然父親からのお咎めの声がかかる。
「おまえがこのさきあくせんちゅえっだあぁぁっッッ!!!」
これが、僕が聞いた、最初で最後の親父の怒鳴り声だったかもしれない。
響き渡り過ぎてなんて言ったのかサッパリ分からなかった。
それでも怒りの対象は、「勉強しないこと」でも、「オンラインゲームに夢中になっていること」でもない。
矛先はやっぱり、「志望校を決めていないこと」であって、それに向けて勉強するかどうかは親は口出しせず、兄の意思に任されていた。
結果、兄は1年浪人することになった。
中学2年生
人間関係が拗れた。
特に部活の仲間とは上手くいかなかった。
今思えば、自分はかなり自己中心的でワガママばかりだったのに対し、周りのみんなはめっぽう大人びていたように思う。
幼稚園も小学校も同じのはずなのに、どこでそんな差がついたんや。
なんとなく自分に非があることに気付きつつ、部内で小さな派閥を作って、ヒエラルキーの底辺で静かにやり過ごした。
反抗期を迎えた。
親に変に世話を焼かれるのもイライラしたし、口も聞きたくなかった。
ともかく、放っておいてほしかった。
親も3人目の子供ともなれば手慣れていた。ご飯食べさせて学校だけ行かせて、あとは部屋に引きこもらせてくれていた。
この一人の時間は、自分を見つめ直す良いきっかけになった。
「どうしたらもっと皆んなと仲良くなれるのかなぁ。。。」
校則を破ってみた。
悪いことをすれば、もっとみんなに構ってもらえると思った。
学校に携帯(当時はガラケー)を持っていったり、音楽を聴きながら登校したり、ちょっとだけ髪の毛を茶髪に染めてみたりした。
うちの中学校は治安が良かったので、これだけで十分尖ることができた。
当然バレて、部活の顧問にボコボコにされた。
でもそれが心地良かった。
これまでずっと優等生を演じていた反動からか、先生から怒られるのが、とてもとても嬉しかった。
夏休み、人生で初めて、「塾」とやらにいってみた。半ば好奇心だった。
当時、学校で成績の良い人たちがこぞって通っていた、愛知県内で展開されている学習塾に行った。
「ほほぉ〜、これが塾ってやつか。」
お試し感覚で夏期講習だけ取ってみたが、学校でやってることと何が違うのか分からず、おメメがまんまるになった。
「こんなんいらんや。」
時間と金の無駄だと思い、速攻で退塾した。
勉強はとてもつまらなかった。
その割に、成績はぐんぐん伸びていった。
自分でも意味が分からなかった。別に勉強時間が増えた訳でもない。何か特別なことをした訳でもない。
「はて?みんなサボっとるとな??」
強いて言えば、試験の出題傾向がなんとなく把握できて、試験前の勉強のポイントを自分で勝手に絞っていたかもしれない。
成績は常に右肩上がりで、なぜか1度たりとも成績を落とすことはなかった。
もしかすると、自分は「勉強の才能」くらいには恵まれているのかもしれない。
中2の終わり頃、バカみたいにモテた。
クラスの半分くらいの女の子から告白されたし、学年でも結構な有名人になっていた。
「これがモテ期ってやつかぁ…///」
特に、ヒエラルキートップのキラキラ層を担う合唱部・ソフトテニス部・バスケ部の獲物にされた。
毎休み時間話しかけられるのは、悪い気はしなかった。というかウキウキだった。
ちょっと面白い人に出会った。
心臓血管外科医の天野篤先生だ。
出会ったというか、テレビで見ただけだけど。
この方について、ここで話すと長くなるので、別の記事に書いておく。興味のある人は見てみてね。
まぁざっくり言うと、すんごいお医者さんだ。
「なるほど。医者の世界って、面白いかも。」
父親が「将来について考える」ことに重きを置く性があったことも相まって、なんとなく”医者”という職業に憧れを抱くきっかけになった。
1浪した兄が、2度目の大学受験を迎えた。
兄はこの1年間、日中は塾に行って勉強し、夜は家に帰ってニコニコ動画を見ていた。
塾とニコ動の往復は大変そうだったが、「ウェヒャヒャヒャッっ!!」っと、深夜の兄貴の笑い声は未だ健在だ。
結果、兄は無事第一志望の国立大学に合格した。
中学3年生
ついに受験生になった。ボチボチ勉強を始めようと思った。
しかし、、勉強の仕方がわからない。
「テスト前でもないのに、何をどう勉強すればええんや。」
よし、とりあえず、あそぼか。
部活の後輩には優しくした。
自分が嫌だったことを押し付けるのは、なんか違うと思った。
レギュラーメンバーには入れなかった。
レギュラーメンバー5人の家来=6〜10番手を担っていた。
「いいもん。レギュラーほど練習もしんどくないし、試合にも出れるポジション最高やん。」
自分の実力不足を正当化していた。
初めての彼女ができた。
というより、できさせられた。
「ねぇ今ほんとに困ってるんだけど、◯◯が私の彼氏ってことにしていい?泣」
「えぇ、、別にいいけど。。」
「ごめんねっ!お願いねっ!」
気づいたら彼女ができていた。
なるほど、これがミスディレクションってやつか。黒子テツヤもビックリである。
部活の引退試合、あっけなく負けた。
部員全員、試合に負けて悔しいでもない、辛い部活の引退が決まって嬉しいでもない。
皆んな、感情がどこかに逝っていた。
顧問が一言。
「負けたのは、、俺のせいや。」
なるほど。世の中そう簡単には報われないらしい。
頑張るところは、、選ばないとね。
部活を引退して、本格的に勉強について考え始めた。
「なんとか、2番目の公立高校に受かりたいんじゃ。」
勉強の仕方がわからないから、塾に通わせてくれと親に懇願した。
「ママ上、俺にBETしてみないか?」
「ええよ〜MAX BETや。」
あっさり承諾。
当時、学校の成績TOP10が、大手予備校「河合塾」の高校受験コース「河合塾Wings」に通っていたので、自分も負けじとそこに通ってやることにした。
この「河合塾Wings」がすごかった。
なんせ、学校の成績TOP10全員が同じクラスに集結しているので、授業のレベルが高いのなんの。
授業についていくだけでヒーヒーだったし、皆んな頭が良くて、刺激的チクチクするような環境だった。
それ以来、僕の勉強に対する姿勢は劇的に変化した。
「奴らに負けてられんとです。」と。
学校の授業も真面目に受けたし、隙間時間があれば一つでも多くの知識を蓄える努力を続けた。
すると成績は爆発的に上がっていき、最終的には学年4位まで上り詰めた。
中学校3年生の頃、今度は3つ上の姉が大学受験生を迎えていた。
相変わらず姉は護衛がうまい。志望校は早め低めに決めていた。
そんなわけで、姉は父親に怒られるよりかは、兄によく怒られていた。
「俺はあんなに怒られたのに、お前は勉強もせずに怒られないのがムカつくんだよぉ〜。」
嫉妬を源泉とする怒りの感情、なんとも可愛らしい主張である。
無事、姉は第三志望くらいの私立大学に転がり込んだ。
高校受験当日
成績が上がったので、図に乗って志望校も上げた。
美容クリニックでお馴染み「高須克弥」や、東進ハイスクール講師でお馴染み「林修」を卒業生に抱える全国的にも有名な私立進学校「東海高校」と、それと対等する名古屋のトップ公立高校「旭丘高校」を受験した。
東海高校の入試はエグかった。
教科書の範囲を余裕で超えてきやがる。
対して、公立高校入試はヌルかった。
教科書の太字ばっか出してきやがる。
私立TOPと公立TOPの差は多分、エベレストか富士山かの違いなんだと思っていた。
どっちも登ったことないけど。
結果は両校とも合格。
中1の頃は3番目の高校を目指していたのに、気付けばトップ高校に受かっていた。
中3の夏頃は、2番目の高校を目指していたのに、気付けばトップ高校に受かっていた。
「俺氏、何か持ってる男なのかもしれない。」
実際、受けた高校は全て、模擬試験を含めて過去最高の出来栄えを叩き出していた。
勘違いも止むを得ない。
どちらに進学するかとても迷ったが、最終的に旭丘高校に進学を決めた。その理由についてはこちら。
高校時代の記憶
進学した旭丘高校は、地方随一の自由な校風で、“自主・自律”を重んじる学校として名高かった。
私服登校も黙認され、校内掃除は有志で行うし、文化祭や学校行事もすべて生徒自身に一任されている。
うちの代では、ハロウィンコスプレ大会を有志で開催したり、形・大きさ・美味さを競うバケツぷりん大会も開催された。
どんな大会にも本気で取り組めるのが、うちの高校のいいところである。
校則も無ければ、受験サポート体制も無い。
そんな特色相まって、浪人率は6割を超える。
中学時代とは打って変わって、自由の身。なんでもできる。
俺はこの高校3年間で、青春ってやつをモノにしてやるんやっ。
ちなみになる話。
旭丘高校は父親と同じ高校である。
父「アサヒは、ゴミみたいで最高な学校だゾぅ〜ガハハっ!」
ゴミみたいで最高な学校。
高校1年生
初登校の日。
信じられないほど盛大に出迎えられた。
「合格おめでとぉぉぉ!!!」
「キャーキャーキャー///」
部活の新歓である。
こういった勧誘にはシラを切れと数多の詐欺撲滅団体から教わっていたが、なんとなく気持ちが昂ってしまったので、さながら某隣国家主席のような立ち振る舞いでビラロードを通過してみたところ、先輩たちの間でちょっと話題の新入生として注目を集めてしまった。
「バスケですか?、、女の子でダブルドリブルしたいですね〜。」
「サッカーですか?、、浮気は恋のオフサイドですよ〜。」
調子に乗りすぎである。(ちゃんと新歓には行った。)
ラグビー部の先輩は達者だった。
「人生で1度しかない高校生活だから、とびっきり最高の青春生活を送りたくない?青春は一人じゃなくて、みんなで作り上げるものだから、うちの部で最高の思い出作ろうぜっ!」
「ところで僕、どMなんですけど。」
「どんないじめられ方がいい!?」
口車に乗せられてひょこひょこグラウンドまでついていったが最後、肉塊を粉々にされた。
結局、ゆるめに楽しくスポーツに打ち込めそうだったソフトテニス部を選択。
やはりゴム製のボールは僕の心と体にフィットした。あと男女混合部活だった。
こうして、しばらくは部活に明け暮れる毎日を過ごしていた。
とある部活の同級生が、先輩にこんなことを聞いた。
同期「旭丘で成績1位だったら、東大受かるん?」
先輩「そら受かるだろ。」
はて?????
東大に受かる?????あのテレビによく出る、天下の東大に?????
サッパリわけがわからなかった。
確かに、合格実績を見れば、旭丘で1位だったら相当な確率で受かるだろう。
「俺の同級生から、東大合格者が出るのか??今のうちにサイン貰っとこう。」
当時は本気でそう思っていたくらい、東大・京大は遥か彼方の存在だった。
「自由とは、それと同時に責任を伴うものである。」
この高校に入学してから幾度となく言われた。
この高校には、課題も無ければ、指導教育も無い。
勉強計画は何から何まで自分でやらなきゃいけないし、試験で赤点を取っても放っておかれる。
「自分のことを自分でできない奴は、この学校にいらない。」
辛辣すぎるお言葉をグサグサ刺してくる先生もいた。
優秀な人材とは、管理教育よりも、こういった自由環境下の方がむしろ生産性を高め続ける。
逆に、落ちぶれる人は、落ちるとこまで落ちる。
「自由と責任は、必ず表裏一体となる。」
上振れ合格の自分にとって、この言葉は刃物のように鋭利に映った。
自分、このままやと落ちぶれますわ。
この高校では、先生の当たり外れの差が激しい。
やる気皆無で模範解答を棒読みするだけの先生もいれば、さながら塾講師のような授業をする先生までいる。
特に体育の教師は、ひょっこり出席だけ取って「あとお願いね〜」とトコトコ職員室に帰る教師もいた。
生徒だけでなく、先生も”自主性”を重んじられているらしい。
高校で初めての定期試験。
だがしかし、この学校の定期試験は、順位が出ない。
というかそもそも、担当の先生ごとに試験問題が違うし、難易度も全然違ったりする。
ウチの高校に限らず、定期試験が正常に機能していない学校は多いと思う。
どういった意図・事情があるのか、未だにナゾである。
夏休み。
河合塾の夏期講習を受講することにした。
大学受験とは如何。医学部受験とは如何。
怖いものは早めに見ておくが吉とみた。
すると、当塾の人気講師がこんなことを訴えていた。
高1のうちから身の丈に合った志望校を設定して受かった人など見たことがない。現実なんて見なくていい。自分もビックリするような志望校を選んでやれ。志望校を下げるのはセンター(当時の共通テスト)が終わった後だ。
某塾 人気講師 より
んなアホな。
受験なんて、自分の実力と向き合って、現実に即して考えるべきやろがぃ。
夢物語に耽るやつは、夢物語に溺れるんだよ。
志望校は京大医学部にした。
いや、夢に耽ってるとかじゃなくって。。。
ほら、目標ってあげるのは難しいけど、下げるのは簡単やんか。。。
とりあえず青天井の理Ⅲは避けて。高校の進学実績に名古屋大学医学部はいらっしゃったから、間をとってナンバー2の京医で。
それで最終的に名医に受かったら万々歳。的なね。
それからというもの、京大医学部に合格するために死ぬ気で勉強しなければならないと思い、部活と寝る時間以外はすべてガリガリと勉強に充てた。
食事の時間も節約するため、カロリーメイト1日12本ムシャついてやり過ごす日もあった。
たぶん、高校1年であんなに勉強してる奴、全国でもなかなか珍しいタイプだったと思う。
到底手の届かない目標でも、意地と根性を剥き出しに喰らい付く姿勢だけは、中学の部活で養われていたのかもしれない。
そんな甲斐あり、成績は順調だった。
冬休み明け、年に1回の実力テストがあり、このテストでは順位が出る。
普段の定期試験とは違い、この実力テストは「東大入試」に近い形式で、難易度も若干東大が意識されている。
当然、高校1年生にそんな問題解けるわけもなく。
平均点は200点満点中30点。
そんな試験で100点前後の得点を獲り、校内順位上位1割(320人中32位以内)をキープした。
高校2年生
春期講習。
河合塾の『ONE WEX総合 インテンシブ』というクラスが気になったので行くことにした。
同塾最上級レベルを謳うクラスで、しかも講習なら認定が必要ないとのことで、アヒルの迷子雛のようにペタペタと忍び込んでみた。
そこでは、東海高校・南山高校女子部など名古屋トップに君臨する私立進学校のドンたちが、幅を利かせてドシンと座っていた。
いや、そう見えただけかもしれない。
それもそのはず、彼ら彼女らは「東大・京大・医学部」の合格が当たり前とされる学校の中でも、成績トップ層を担う期待の星たちなのだ。
東海13人、南山8人が居座る教室に、旭丘が1人。
一番後ろ右奥の席にポツンと座り、その席を特等席として1週間をやり過ごした。
結果は惨敗。
授業は何一つとしてついていけなかった。
それなのに、周りはヘラヘラと平然とした顔をしている。
俺はここにいて良いのか?
迷い込んだ1匹の醜いアヒルの子は、ここで白鳥へと成り上がることはできるのか?
1学期の『ONE WEX総合 インテンシブ』に進むためには、認定テストを受ける必要がある。
なるほど。この試験で俺の居場所は決まる。
果たして俺は、京大医学部志望を名乗ってイイのか。俺は土俵に立たせてもらえるのか。
カチコチに固まった唾をゴクリと飲み込み、試験会場へと向かう。
あっさり落とされた。
いやたぶん0点やった。ペンを握る気にもなれなかった。
「なんやねん。あんなん解けるとか宇宙人やん。」
何の気なしにテクテクおウチに帰ったが、この出来事はアヒルの闘志に静かな炎を灯した。
学校が始まり、クラス替え。
3人の友人に恵まれた。
関口メンディーみたいな友達と、いつも結膜炎起こしてる友達と、しまうまみたいな友達だ。
メンディーは野球部のピッチャーで、京大工学部志望。父親が学習塾の経営をしていて、化学がめっちゃ得意。
結膜炎はサッカー部のMFで、地方国公立医学部志望。家族愛の強い素敵な家庭で、弟がめっちゃイケメン。
しまうまは、ラグビー部のチンピラだ。
メンディーは同じく京大志望、結膜炎は同じく医学部志望、しまうまは同じく生命体。
4人でいつも集まっては、コミュ英の授業に遅刻してよく怒られていた。
この4人ではいつもふざけ合っていたが、なんだかんだで進学校のメイツ。
大学受験に関してはいつも真剣に語り合っていたし、こんな時期から受験勉強を始めていた自分のこともキモがらず受け入れてくれた。
「あいつがいるから俺らも勉強のモチベ保てる」「まじあの人努力の鬼」「カロリーメイトと勉強でできてる」
そんな言われまであって学年中で噂になり、“旭丘のレッドブル”という称号まで手に入れてしまった。
勉強のオトモにどぞ。
部活も大好きだった。
同期は皆いい人。後輩は皆可愛かったし、先輩とはたくさん喧嘩した。
先輩とのいざこざは明らかに先輩に理があったので、気持ちの良いくらいに負かされていた。
それでも中学の部活とは違って顧問に理不尽に怒鳴られることも無い。
皆んな自分を律することのできる人ばかりだったので、自分も釣られて練習に励んでいた。
夏期講習。終始河合信者を貫き通す。
例によって、認定が必要ないので『ONE WEX総合 インテンシブ』クラスに通うことにする。
春期講習の時と顔ぶれが同じだったためか、さほど居辛さは感じなかったし、特等席もちゃんと用意されていた。
その上、何となく超難易度への耐性がついたのか、何とか宙ぶらりんになりながらも授業について行くことができた気がする。
授業後、自分で復習するくらいにはやる気もついてきた。
そして再び認定テスト。
2学期の生活はここで決まる。
なんとなく、今回ダメなら諦めようかと思っていた。
この感じでダメなら、たぶん彼らは住む世界が違う。
考えてみれば当然で、中高一貫の彼らは中学の段階で高校範囲の勉強を進めている。
その差を部活の片手間で埋めようなんて、虫が良過ぎる話だ。
合格した。
どうやら俺は私立勢の背中を捕らえたらしい。
ようやく追いついた。土俵に立ったんや。
夏の緑山でオオクワガタを捕まえた小学生のように、合格通知書を高々と掲げた。
こうして、高校2年の2学期から本格的に塾(英・数2科目)に通い始めることになった。
この時初めて知ったのだが、『ONE WEX総合 インテンシブ』には、上レベルPクラスと下レベルQクラスの2種類があり、結果はQクラス。
まだ上の世界があるらしい。なんやねんそれ。
河合塾・英語の総合クラスはPQクラス合同で毎講義に小テストが課され、成績上位10名が公表される。
進学校や予備校ではよくあるシステムかもしれないが、旭丘では絶対に考えられないシステムで新鮮だったし、なにより東海・南山のトップ層と成績を争える重要な機会だった。
たぶん私立勢はあまり本気で取り組んでいないテストだったかもしれないが、ここで名前を呼ばれたいがために生きていたし、1位を獲ったときは何食わぬ顔で心をピョンピョン踊らせて喜んでいた。
1週間に1度、この成績発表のサイクルが勉強のモチベーションを保ついいペースメーカーになっていた。
彼女ができた。
部活の後輩だ。
彼女は僕の受験勉強事情をよく理解してくれて、とり立てて遊びに行かなくても笑顔で隣にいてくれた。
デートといえば、学校に2人で残ってのお勉強デート。
遅くまで残りすぎて深夜徘徊。
警察に幾度となく補導されたのも、青春と感じるお年頃である。
この頃の勉強量は常軌を逸していた。
夜中の睡眠は3時間程。
これに仮眠を付して計5時間の睡眠でなんとか頭を働かせ、部活以外の時間は全て勉強に注ぎ込んだ。
正直勉強効率は落ちていたと思うし、これが自分でも良いやり方だったのかは分からないけど、当時の自分はそんなことを考える暇が無いくらい余裕が無かった。
「直前期は体調を崩せない」「無理ができるのは今しかない」「ともかく勉強時間を稼ぐしかない」
その結果、意図せずこんな生活スタイルになっていた。
こんな下手なやり方、マネしないでね。
冬期講習。認定を持って初めての講習だ。
やはり環境に染まることは大切である。
授業にはついていくのはもちろん、講師がどのように問題を見ているのか、その本質的な部分まで追うことができるようになっていた。
とはいえ、自分はまだQクラス。
京大医学部やったら、たぶんPクラスに入ってないと話にならんよな??
さて3度目の認定テスト。
Pクラスに入ることができたら、いよいよデタラメに決めた志望校が視野に入ってくるような気がした。
そんなことあって良いのだろうか。
こんな陳腐で、平凡な公立学生が、神域と呼ばれるPrincipalクラスに追従できるはずがない。
合格した。はて、夢である。
誇張に聞こえるかもしれないが、自分の中では天地がひっくり返った瞬間だった。
Pクラスでは、東大・京大はもちろん、理Ⅲ・京医も当たり前のように輩出される世界だ。
いよいよ自分にも京医挑戦の資格がある。
Pクラス昇進は大きな自信となり、受験生活に多大な影響を与える出来事であった。
冬休み明け、学校で2度目の実力テスト。
校内で唯一順位が出る、これまた貴重な機会である。
大方冬休みはこの実力テストに照準を当て、年末年始も1日たりとも休まずに、身と睡眠と命を削ってガリガリと勉強しまくった。
結果は320人中26位。
英語・数学・理科は上位1割を抑えたが、国語が下位20%。
日本の暮らしにはまだ慣れなていない様子である。
高校3年生
受験生。ついにこの年がきてしまった。
高3から河合塾では『インテンシブ』クラスが無くなり、大学別コースとなる。
『東大コース』『京大コース』の他、東海地区限定で『名大医進コース』があった。
志望校にもダイレクトに関わってくるかなり重要な選択となるが、『京大コース』から『名大医進コース』に下げることは出来ても、『名大医進コース』から『京大コース』に上げることは到底出来ないだろうという考えのもと、一旦は『京大コース』に覚悟を決めることとした。
5月。
ウチの部活は毎年3年生がこの時期に引退試合を迎える。
ところがどっっこいしょ。熱中症になった。
若葉の候、東風も生温いこの時期に。
蛍光灯パイプで頭蓋骨の内側からガンガンぶたれる感覚に襲われつつ、視界が揺れる中テニスコートに臨んだが、それ以降は記憶が無い。
気付けばクラブハウスでベロンと横たわっていた。
5時間の睡眠とカロリーメイトでは人間の身体は保たないことを、己の身で知った。
この学校では、高3になると6、10、1月の計3回に校内模試が実施される。
高1・2の実力テストとほぼ同じ要領で、東大入試に準じた試験が課され、校内順位が言い渡される。
過去の先輩の進学実績は、この校内模試の順位と照らし合わされ、在校生はそのデータを基に自分の立ち位置を把握することになる。
ここでようやく、「進学校」としての片鱗を顕にされたような気がした。
プライバシーのカケラもないシステムだが。
1発目の校内模試。
初めて1ケタ順位を獲った。
公立とは言え、名古屋のトップ高校であるがゆえ、校内偏差値200を叩き出す測り知れない天才もいる。
その中で大きく順位をあげたのは、大きな大きな自信となった。
部活の引退が知らぬ間に決まり、いよいよ勉強一筋になるかと思いきや、「3年劇」の練習が始まる。
「3年劇」とは、旭丘で最大の伝統とも言える、文化祭での目玉イベントである。
旭丘の3年生は毎年この3年劇に全身全霊を懸けて身を投じ、クラス一体となって90分の演劇を作り上げる。
「大道具・小道具」「衣装・メイク」といった様々な役割がある中、当時仲良くしていた野球部の大坊主に「キャスト(演者)やるぞ」と言われ、校内模試で順位を上げた昂ったテンションのままキャストをやる運びとなった。
延いては、6〜9月の大半は演技練習とセリフ暗記。
「受験の天王山」と称される高3の夏休みは、青春に溶かすこととなった。
夏休み。
塾の講習等は一切取らなかった。
劇の練習で時間が限られている中、講習なんぞ生温い環境で過ごす暇は無い。
公立高生に宿命の苦悩だが、この時点で理科は出題範囲の履修を終えていない。
京大医学部受験生で、そんな奴俺以外にいない。
劇の練習が休みの日には、1日20時間勉強する日もあった。
受験狂いの境地である。
勉強量確保のことで一杯一杯。
気が気じゃなかったが、とりあえず模試だけは申し込んでおく。
河合塾主催:「センター模試」「京大オープン」「医進模試」
夏休みはほぼ隔週で模試を受け、それぞれの模試をランドマークに勉強計画を立てた。
「模試の受けすぎは良くない」と巷で言われてるなんて後から知った。
このやり方が正しかったかどうかはわからないが、結果的に勉強ペースはイイ感じになった。
遊びの誘いは絶対に断らなかった。
友達のことは好きだったし、勉強を理由に遊びを断るようになったら人間としてオワリだと思っていた。
人生を豊かにするはずの勉強に、人生を拘束され始めたら本末転倒やぞと。
っていうかシンプルに『君の名は。』が観たかった。
3年劇本番を迎えた。
400人(だっけ?)を超えるお客さんにご来場いただき、会場はパンパンで入場制限がかかった。
本番中は集中して全く気付かなかったけど、劇終わりに場内をグルリと見回したら、なんと号泣してる人がたくさんいた。
ふむ。。こんな自分にも、人に感動を届けることができるのか。。
あんな大舞台で演劇をすること、この先またあったらいいなぁ。なんて。
文化祭が終わり、3年間の高校生活での全ての学校行事が終わった。
焦燥感と寂寥感で胸がはち切れそうだった。
残すは大学受験のみ。
ここから勉強一筋で、ラストスパートやで。
夏休みに受けた模試が返ってきた。
結果はボロボロ。
あんぐりマウス。お先真っ暗もいいところである。
正直、もう少しイイと思っていた。
「え?こんな厳しい世界なん?」
自分が相手にしているのは、灘・東大寺といった、教育ドーピングどっぷりびたびたの受験エリートである。
この時初めて、立っている土俵の恐ろしさを知った。
いや、あの頃は劇で忙しかったし、こっから挽回っしょ。(ヘラヘラ)
10月に校内模試。11月に京大模試。
味気のない秋の学舎では、模擬試験が唯一のスパイスとなった。
2発目の校内模試では、前回よりさらに順位を上げ、ドカドカと得点を伸ばす疾風のストライカーとして、旭丘の成績首脳陣と肩を並べるほどの脅威的な存在だった(らしい)。
ともなれば、京大模試でも芳しい成績を期待してしまう。
E判定。
はて。困った。むしろ判定を落とした。
最初にこの結果を見た時は、焦りすぎて頭のネジが2本ほど抜けた。
どうなったどうなった。
えっっと、名古屋に下げるか?
いや出来ない。
この3年間、ずっと京大入試の対策だけ続けてきた。
名大入試の入試傾向など1ミリもしらない。
名大医学部志望者の中で、自分がどの立ち位置なのかもわからない。
その上、京医はセンター:2次=250:1000であるのに対し、名大はセンター:2次=900:1650。
センター試験に苦手意識があった自分にとって、名大の配点は地獄の様相をしていた。
「旧帝大医学部」なるもの、パッと出の公立受験生が受かるほど甘い世界なわけがない。
土壇場でそんな暗闇に突っ込む勇気など、小心者の僕には無かった。
じゃあ地方医学部まで下げる手は?
出来ない。
これまで血の滲む勉強量を積みかさねてきた。
変なプライドが邪魔する上、その高低差では摩擦が仕事せず滑り落ちる予感もした。
高1のうちから身の丈に合った志望校を設定して受かった人など見たことがない。現実なんて見なくていい。自分もビックリするような志望校を選んでやれ。志望校を下げるのはセンター(当時の共通テスト)が終わった後だ。
某塾 人気講師 より
自分が馬鹿だった。
センター後に志望校を変えるなんて、どう考えても遅すぎる。
高1・2で夢物語に耽るまでは良かったかもしれないが、高3では魂を取り戻すべきだった。
調子に乗っていた。受験の全国大会を舐めていた。
八方塞がり。
あまりの悔しさと惨めさに、枕を塩水で濡らしてしまう日もあった。
残された道は、京大医学部に特攻することのみである。
冬休み。
ここでも塾の講習等は一切取らなかった。
それよりも自分にはやるべきことがある。
睡眠だ。
ここまで生き物として最低限度の生活を営んでいなかった。
毎日12時間。死んだように寝た。
本当に本当に、身体が悲鳴を上げていたんだと思う。
どこかクラッチが外れたのか、それまで封印していたYouTubeも見始めてしまった。
受験期の桐崎栄仁は愛おしかったし、フィッシャーズはどこまでも夢を見させてくれていた。
ともかく、勉強以外のことは何もかもが楽しく感じる体になっていた。
それでも気は抜き切らず、年越しそば片手に京大数学の赤本を食べた。
大学受験当日
センター試験。
身体はしっかり休まった。
当日は雪が降ったため、父親に車で試験会場まで送ってもらった。(ありがとう)
結果。
過去問・模擬試験を含め、自己最高点を叩き出した。
運的な要因も絡み合ったとは思うが、高校入試といい、センター試験といい、本番で最高点を出す「勝負強さ」は、少なからず自分の中で自信となっていた。
2次試験も、この勝負強さでもって、最低点に滑り込めねぇかなぁ。。
3発目の校内模試。
センターボケを引き締めるイイ機会だった。
相変わらず順位は上がり、最終的な理系順位は4位に落ち着いた。
1位は天才すぎてお話にならない。
2位は同じ中学で、中3の頃に公文式で積分を解いてるような奴。
3位は数理科学部の部長で、絵に描いたようなイキリオタク陰キャである。
皆んな余裕で東大A判定を掻っ攫っている。
そして席次4番にE判定がひょっこり。
この世界は何かが狂っている。
2次試験までの1ヶ月。
クマとプーさんを足して2かけたみたいな、阪大工学部志望のクラスメイトと一緒にガリガリ勉強した。
「浪人はしない〜。浪人するくらいなら工場でネジつくるわ〜。」
と工学部みたいなことを言っていたので、
「じゃあ俺は腎臓売るわ〜。」
と医学部みたいなことを言いつつ、2人で夜10時まで学校で居残り勉強するなど、浪人回避作戦を実行する運びとした。
これまでの京大模試で時間内に最後まで問題を解き切ったことが無かったため、ともかく京大の入試傾向に慣れることが大大大先決問題だと感じていた。
京大の過去問はもちろん、京大オープン・京大実戦の過去問にまで手を出し、毎日のように本番形式での演習を続けた。
こうして演習を積み上げる中で、解く問題・飛ばす問題の選定、ペース配分のルールなど、「試験時間内で得点を最大化する手法」について研究に研究を重ね、自分なりの解き方を確立させた。
最後の最後まで、足掻いて、もがいて、後悔しない程度に全力を尽くした。
いよいよ2次試験。
結局、志望校を下げることもなく京都に来てしまった。
メンディーと一緒に京大受験をするということだが、メンディーおばばのおウチが京都にあるので、宿泊はメンディーおばばのおウチでお世話になることとなった。
おばばのおウチはどこも、
・食べ物たくさん出てくる。
・お風呂めっちゃ熱い。
・ちょっと変な匂いする。
と相場が決まっているが、メンディーおばば家も漏れなかった。
おやつの時間にお好み焼きが出てきた時にはむしろ安心感を覚えたし、お風呂はしっかり火傷した。(嬉々)
特有な匂いのリラックス効果もイイ感じだ。
試験当日。
周りの人たちは全国最高レベルの頭脳の持ち主じゃがいもだ。
唯一旭丘から一緒に京医を受けた、同級生かつ同じ部活の同期が隣の席に座った。
いや、ここで初めて一緒に受ける人がいることを知った。
「おぉ、きてたんや。」
「せやでぇ〜。」
たぶん、隠れて受けたかったのかな、、と想像を膨らませてしまい、気まずくてうまく話せなかった。
迎えた1日目。(国語・数学)
数学リミッター解除。
解法が降りてくる降りてくる。
模試はE判定であってもいい。
運であろうと、たまたまであろうと、今日この場でさえ得点できれば、あとはどうだってイイんだ。
あまりの出来の良さに、我慢しきれず解答速報を確認してしまった。
結果は6問中5完半。2日目の科目が多少悪くても合格圏内だ。
2日目。(英語・理科)
超難化を想定していた僕は恐る恐る問題をみるも、例年とそう変わらない。
物理はむしろ易化?といった感じ。
大きな失敗もすることなく、無難に乗り越えられた。
試験を終えたメンディーは開放的に暴れ回っていた。
「おいw終わったぞww」
「この海外サッカーのアフレコ実況動画マジおもろいから見ろww」
こっちは3日目控えとるっちゅうねん。
3日目。面接だ。
圧迫面接もあるとの噂だったのでビクビクで臨んだが、非常に穏やかな面接で難なく終了。
総合的に好感触。
「もしかしたらもしかするぞ」と、合格発表の日が待ち遠しくも感じられた。
合格発表
3月10日。運命の合格発表。
受験で長らく歯医者に行けていなかったので歯医者の予約を取ったのだが、合格発表の時間と被ってしまった。
結果は歯医者の待合室で見ることに。
発表時刻の12:00になった。スマホの画面上に数字がズラッと並ぶ。自分の番号は…
あった。
この瞬間顔が真っ赤になり、涙が噴出する。
周りから見たら歯医者で急に泣き出す奴になってしまったが、そんなことどうでもいい。
こんなキレイな逆転合格が現実に存在するのか。
両親、友人、学校の先生や予備校の講師、お世話になった人への感謝が止まらなかった。
これにて、僕の大学入試は閉幕。
もちろん虫歯もたくさんあった。
僕が情報を発信する理由
「人生とはいつだって、『あの時の自分、死ね』の連続だ」
作家 朝井リョウ
過去の自分に感謝できるのは、そう簡単ではない。
過去の自分に対する自責と嫌悪は誰だって多少は持っているはずだ。
それはたぶん、現状に満足していないからだと思う。
過去の自分がサボってきたツケが今の自分に被っているんだからそりゃ、過去の自分を恨むのは当然だ。
「たくさん悩んで苦しかったけど、君(過去の自分)がたくさん悩んでくれたから今の俺は生きていられるんだよ」
オードリー若林『ナナメの夕暮れ』
他方で、オードリー若林は過去の自分と向き合って、はっきりと感謝を述べている。
未来の自分が現在の自分を褒める。それはつまり、未来の自分が今の自分を許すってこと。
未来の自分が今の自分を「憎む」のか「許す」のか。
大切なのは、「未来の自分を形作るのは、今の自分である」という事実である。
つまり未来の自分が現在の自分を褒めてくれるように、今たくさん悩んで挑戦する。
ここまで話してきた通り、僕は正真正銘の「上振れ合格」。
人様に「ああしろ、こうしろ」と大口を叩けるほど、堅実な受験人生を送っていない。
ただ実際に、『京大医学部を志望して、その過程でいっぱい努力していっぱい悩んで、最終的に京大医学部に「出願する」という挑戦に踏み切った』ことだけは事実なんだ。
アドバイスなんてほとんど出来ないけど、この「経験」くらいは語ることができる。
「自分らしくしてれば、いつかきっと未来の自分が褒めてくれる」
あの時、自分の限界に挑戦する勇気を持ったから、「挑戦する」楽しさを知っている。
だからもっともっと色んなことに挑戦して、知らない世界にも飛び込んでいける。
あの頃の経験を「輝石」として、”人生”を使って自分の夢を体現したい。
そして、ずっとずっと、見ている人に夢を伝え続けていきたい。
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まずはここから
〇京大医学部ブログ‐逆転合格体験記-最初に伝えておきたいこと
逆転合格体験記のホームページです。
受験勉強において大前提となる心構えについてのお話しを書いています。とても重要なことなので是非最後まで目を通してみてください。
◯【保存版】効率の良い勉強法の基本-必ず知っておきたい勉強の王道まとめ
受験に臨むに当たって、大前提となる勉強法の基本をまとめておきました。
一般に知れ渡っている「王道」と言われる勉強法は、多くの人の成績を上げ続けているからこそ「王道」と呼ばれているわけであるため、是非1度は試してみるのはいかがでしょうか。
コメント
コメント一覧 (5件)
テストで緊張で頭が真っ白になってとける問題も解けなくなってしまいます。演習不足といわれればそれまでですが、クリリンさんが最近の動画で過呼吸になっていたと聞いて同じものを感じてコメントさせていただきました。緊張との付き合い方の記事が読みたいです。自分は高2で、1年では頑張っていましたがコロナ休みで緊張の糸が切れだらだらし、どうにでもなれ効果により現在ツケが回ってきているにもかかわらず投げ出そうとしていた者です。クリリンさんの動画に出会ってから自分に対して不誠実な態度をとってしまいそうな場面もクリリンさんが思い浮かんでもちなおすというような形でクリリンさんに人生をじわじわ変えられている者の一人です。
赤チャートは単元ごとに例題 練習 章末問題をしていましたか?
初学は単元ごとです。
高校一年生の夏から寝る時間以外はすべて勉強に費やしていたのですか?
YouTubeでクリリンを知りました。(親しみを感じているので(?)敬省略。すみません笑)
確かに、クリリンの言葉には重みがあるし信念も感じられます。
自分は大学一年生だから大学受験は終わりました。しかしクリリンの言葉でストイックに生きたいと思いました。
結局やるのは自分ですが、クリリンにはとても刺激をもらっています。色々と発信頑張ってください。
私もほどほどに頑張ります笑