こんにちは。クリリンです。
僕はこれまでの人生で数多くの偉人たちの“言葉”に救われてきました。
今回はそのうちの一人、順天堂大学医学部心臓血管外科主任教授の天野篤教授についてです。
天野先生は今でこそ、年間の手術症例数は400例以上、成功率は98%とトップクラスの技術を持ち、「神の手」と称されるほど凄腕の持ち主ですが、そこに辿り着くまでには数多くの苦難を乗り越えていらっしゃいます。
その経歴と、そこから生まれた名言についてお話していこうと思います。
麻雀とパチンコに尽くす高校時代
高校は、埼玉県の名門公立高校の浦和高校。
勉強などそっちのけで、麻雀とパチンコに明け暮れる日々。
「本気を出せば挽回できる」
「努力しないから点数が取れないだけ」
そう楽観し、授業すらもさぼっていました。
高校時代からマージャンやパチンコの腕がプロ級だった。一生食べていけると思えるくらい極めた。
天野篤 教授
それはそれですごいですね…。
やはり何か物事を極めることについては才能をお持ちだったのでしょう。
医学部を目指すも、浪人3年目突入
父親の伯父が勤務医だったことから、医師という職業については子どもの頃から何らかの意識はしていました。
特に父親は若い頃から心臓を患っていて、大伯父から心臓病について教わったこともありました。
しかし、具体的に将来何をしたいのかは決まらず。
それだけに勉強に身が入らず、漠然とした思いで医学部を受験したものの、なかなか合格できなかったのです。
そしてそのまま3浪目に突入。
ここでようやく医師になることを決断します。
それ以来、受験勉強中は常に「自分ほど医師に向いている人間はいない」と思い続けることで自分を奮い立たせ、勉強しました。
天野先生は浪人の経験をこう振り返ります。
私の場合、あのままストレートで国公立大の医学部に入学していたら、全く挫折を知らず、人の痛みの分からない医師になっていたかもしれません。
天野篤 教授
ありきたりな振り返り方ではありますが、天野先生の言葉だからこそ重みがありますね。
そして3年間の浪人生活の末、ようやく日本大学医学部に合格します。
「一日も早く一人前の医師になろう」
日本大学医学部に合格したとはいえ、家は決して裕福ではないごく普通の家庭。
3000万を超える学費を支払うため、父親が退職金を前借りして、入学に必要な費用を工面してくれました。
そんな父親も、天野先生が医学部に進学してからは、心臓病で入退院を繰り返すようになります。
「父親の病気を自分の手で治したい。」
それ以来、“一日も早く一人前の医師になろう”という信念を強くして、日々を過ごしました。
医学部6年間の生活を天野先生は以下のように振り返っています。
何事もルーツをたどることが重要だと考えています。近代医学のなかで心臓外科の歴史をさかのぼると、60~70年前になります。例えば、学生時代は、大学の図書館で文献を探し、最初の人はどのように心臓を手術をしたのか掘り下げていく勉強法が好きでした。
一方で、講義で教わったことを研修医や臨床医は実際の現場でどのようにしているのかを知るため、研修医向けの専門誌や臨床医向けの雑誌を読んでいました。その誌面に載っている参考文献を図書館で探して読み込むと、どんどん知識の幅が広がっていった気がします。現在は、インターネットで膨大な情報を得ることができます。いくらでも知識を掘り下げられますから、うらやましいですね。
天野篤 教授
天野先生の信念がどれほど強いものだったのかがうかがえます。
父親の死-1糸の重み
待望の父親の心臓手術の日がやってきました。天野先生は第一助手として手術に参加します。
ところが、手術は失敗。
心臓に縫い付けた人工弁の糸が1本緩み、それがきっかけとなって、父親はかえらぬ人となりました。父親の死というあまりにも残酷な現実を突き付けられるのです。
天野先生は当時の経験を以下のように話しています。
父は、心臓手術でこうしてはいけないということを、自分の命とひきかえに教えてくれた。
自分は誰よりも、“1糸の重み”を知っている。
天野篤 教授
これ以来、天野先生の一つ一つの手技に対する厳しさが生まれました。
多くの部下を率いる立場になった今でも、体裁にこだわらず、時には縫い直しをしてまで、丁寧な手技を突き詰めています。
今や多くの心臓外科医たちが、天野先生を「日本一丁寧な手技を行う」と評価するまでとなりました。
「ただ父親に褒められたいだけ」という天野先生の机の中には、今も父の形見の人工弁が入っているそうです。
ストイックな医師生活が生んだ「神の手」
父親の死を経て、天野先生のストイックさはさらに加速していきます。
急を要する患者の連絡が入れば、どんなに疲れていようと手術室に向かう。月曜から金曜までは自宅に帰らず、医師室に泊まり込み、24時間体制で患者を見守る。手術の合間の空腹はバナナ1本で済ます。
こうした生活を30年以上続けています。
日本の心臓外科医が1年間に行う執刀数は50件が平均という中で、天野先生の年間執刀数は400件以上。
この圧倒的な経験値が、手術を成功に導きます。
どんなに困難な状況に直面しても、その手が3秒と止まることはありません。膨大な過去の経験から最善の一手を選択し、冷静に手術を進める。その腕前は「神の手」とも称されるようになりました。
そんな天野先生の“医師”という仕事に対する意気込みは、
漏れがあったら負けるわけですよ。相手よりも自分の方が考えるパターンが少なかったら負けるわけじゃないですか。
それをしたくない。
それがあったら手術は勝負事じゃありませんけど、手術の中でうまくいったとしても、それはもうまぐれなんですよ。かなり偶然。
うまくいく必然性をつくらないといけない。
天野篤 教授
そしてもう一言。
同じ判断ミスで患者さんを失ったら、心臓外科医を辞めようと覚悟しています。
天野篤 教授
まさに“人生の全てを手術に捧げる”という言葉が合致します。
天野先生が手術を成功させるのは「必然」なのです。そしてその「必然性」は日々精度を増していっているのですね。
それにしても、なぜそんなにも頑張れるのか。
自分のね、天命、決められたものあるでしょ。
それに対しては忠実にやってるだけですよ。
ま、宿命かな。
天野篤 教授
父親の死は、どうやら天野先生の重大な起動力となっているようです。
お父様も机の中から、そんな天野先生の姿を見守っていることでしょう。
天皇上皇明仁の執刀医に抜擢
天野先生のこれまでの実績が評価され、2012年、順天堂医院に所属していながらも東京大学医学部のチームに招かれる形で天皇上皇明仁の狭心症に対応した冠動脈バイパス手術の執刀医に抜擢されました。
これは私立大医学部出身者としては異例のことです。
手術は無事終了。終了直後の会見で、「手術は成功したと思うか。」という質疑に対して、天野先生は以下のように話しました。
陛下(現上皇)が術前にご希望された日常の生活を取り戻される時点が手術が成功したかどうかを話題にしていい時期なので、現状の成功かどうかの判断はやや尚早かと思われます。
治療はそのような状況が達成されるまで継続しますし、我々のチームもこれまでと同様に、ディスカッションを加えながら、その日が来るのを楽しみにしています。
「成功」という言葉に関してはそれまでは極力触れたくないというのが本音のところです。
天野篤 教授
通常のバイパス手術では、血流が80%回復すれば成功といわれますが、天野先生のそれは、ほぼ100%の流れを生み出します。
単に生き延びるための手術ではない。“生きる喜びを取り戻す”こと。
術後の不安や再手術の芽を取り除き、最終的には患者が手術したことさえ忘れてしまう。
それが達成されてはじめて「手術の成功」という言葉を使うのだと天野先生は言います。
最後に:天野先生の座右の銘
天野先生は、執刀医として携わったおよそ6千の心臓手術で、98%という群を抜く成功率をおさめてきました。
この成功率を支えるのが、“一途に、一心に”という言葉です。
ひたむきに一心不乱に取り組むことでいつも以上の力が出る、という意味を含んでいます。周囲からの評価でなく、自分自身の目標を置くことこそ、見えない何かをつかむスタートラインだと心に刻んでいます。
天野篤 教授
出版書籍『一途一心、命をつなぐ』
NHK人気番組 「プロフェッショナル 仕事の流儀」DVD
この記事を書く参考とさせていただいたビデオで、天野篤教授の凄さの全てがわかる1作となっています。
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